平安の女流歌人・小野小町は、今から1200年程昔の809年、出羽の国・福富の荘桐の木田(現在の湯沢市小野字桐木田)に生まれました。 幼い頃から歌や踊りはもちろん、琴、書道となんでも上手にこなし、13才の頃には都へのぼり、都の風習や教養を身につけました。 宮中に仕えるようになった小町は、その容姿の美しさと優れた才能から多くの女官中、比類なしと称され、その歌は六歌仙、三十六歌仙に残っています。
しかし、故郷を恋しく思う気持ちは消えることなく、小町36才の時、宮中を退き、小野の里へと帰郷。庵を造って静かに歌を読み暮らしていたところ、小町を想う深草少将は、小町に会いたさから郡代職を願い出て、都から小野の里へとやってきたのです。
深草少将は、会いたい旨の恋文を小町へと送りましたが、小町はすぐに少将と会おうとせず、「わたしを心から慕ってくださるなら、高土手に毎日一株づつ芍薬を植えて百株にしていただけませんか。約束通り百株になりましたら、あなたの御心にそいましょう」と、伝えました。 少将はこの返事をきいて野山から芍薬を堀り取らせ、植え続けました。一株づつ植えては帰っていく毎日。実は小町は、この頃疱瘡を患っていたのです。百夜のうちに疱瘡も治るだろうと、磯前(いそざき)神社の清水で顔を洗い、早く治るよう祈っていました。 深草少将は一日も欠かすことなく99本の芍薬を植え続けました。
いよいよ百日目の夜。この日は秋雨が降り続いたあとで、川にかかった柴で編んだ橋はひどく濡れていました。 「今日でいよいよ百本」。小町と会える日がきたと喜び、従者がとめるのもきかず、少将は「百夜通いの誓いを果たす」と、通い慣れた道を百本目の芍薬をもって出かけました。
しかし、少将は橋ごと流され、不幸にも亡くなってしまったのです。小町は深い悲しみに暮れ、少将の亡骸を森子山(現在の二ツ森)に葬ると、供養の地蔵菩薩を作り向野寺に安置し、芍薬には99首の歌を捧げました。少将の仮の宿だった長鮮寺には板碑を建て回向し、その後岩屋堂に住んだ小町は、世を避け自像を刻んで、92才で亡くなったといわれます。
小町まつりは、古くから芍薬塚(小町塚)で行われます。開催日は、芍薬の花香る六月第二土曜日。まつりは祝詞奉上に始まり、巫女舞で神前を清め、小町の魂をなぐさめる謡曲が歌われるうちに市内から選び抜かれた七人の小町娘が登場し、小野小町が作った和歌を朗詠し小町堂に奉納します。